「後藤さんという方を知っておられますか?」という知り合いの記者さんからの一報で、私は起こったことを初めて知った。
なぜ後藤さんが10月に行ったのか、なぜ短い日程だったとか、慎重な彼がなぜ危険なことを知りながら、仲間や、ガイドを押し切って行ったのか、まだわからないことが多い。
しかしながらこの問題をこのままに終わらせるのではなく、そして忘れ去るのではなく、今回のことがなぜ起こったのか、これからどうなっていくのかということは見続けていかなければいけないと思う。
私自身は同じジャーナリストとして思うのは、彼がシリアに行っていたと聞いたとき、よく行くことができたなと思った。ご存知のように今、シリアはイラクとともに最も危険なところだ。
後藤さんを初めて知ったのは1990年代後半、アフリカの少年兵が問題になり、私はテレビ番組でウガンダの少年兵のことを取材している頃、彼はシエラレオネの少年兵を取材していた。彼が取材したテレビの番組を見た。とても誠実そうな人だった。
それ以後、私はパレスチナへ行き、彼はアフガニスタン、イラクなどへいき、お互いに会うことはなかった。
アメリカが始めたイラク戦争は泥沼化し、シリアではアラブの春が始まり、アサド政権が力で抑えようとしてエンドレスの戦いが始まった。国際社会は手をこまねき、20万人以上の死者が、300万人を超える難民が出た。混乱につけ込むようにして「イスラム国」と名乗る組織が誕生した。日本を含む国際社会の無関心が、結果的に今のイスラム国を作ることになったし、今回の問題も引き起こすことにつながったといえる。
今回は「イスラム国」という組織の残虐性、非人間性ゆえに、センセーショナルな面ばかり強調されていて見えてこないのが、シリア、イラクの一般の人たちの状況だ。
ある日、数百人、数千人とも思えるシリアの人たちがパンを求めて瓦礫の中を集まっている一枚の写真を見て何とも言えない気持ちになった。ジャーナリストとしていくべきところだと思った。でも私は行けなかった。そして後藤さんは行った。それも何度も。その勇気には敬服する。
この文章を書こうと思ったのは、単に後藤さんを賛美しようと思ったからではない。ジャーナリストとして、彼の生き方に学ぶところが多いと思ったからだ。彼がやろうとしたことを、蛮勇という一言で傷つけてほしくない。
私はジャーナリストとして、記録者として、パレスチナに通い続けている。厳しい状況の中で生きている人たちのことを何とか、日本に伝えたいと思っている。単に紛争を伝えるだけでなく、そこに住んでいる人たちのこと、その人たちの生活、その人たちの声なき声を伝えていくことをやって来たし、これからもやっていくだろう。
今回、安部政権が2人の人質がいる状況で、中東外交を展開し、「イスラム国」対策のための中東諸国への2億ドル支援とイスラエルと関係を深め、日本政府は取り返しのつかないことをしてしまった。
中東では今まで日本という国はとても暖かく迎えられた。私を日本人とみるや愛好を崩して近づいてきてくれた人たち、子どもたちがいた。しかし湾岸戦争、イラク戦争の自衛隊派遣、そして小泉前首相が「イラク戦争支持」と発言してから少しずつ日本を見る目が変わっていった。それでも日本が政治的にも経済的にもアメリカに従属していることはアラブの人たちは知っていても取り立てて責められることはなかった。
しかしこれからは日本がもはや中立ではなく、アメリカやイギリスと同じ同盟国だとみなされる。そしてこのまま安部政権が真の平和外交をめざすのでなく、テロとの戦いを突き進んでいくならば、「イスラム国」組織からだけでなく、アラブ社会全体から敵視されていくようになるだろう。中東に通い続けて25年以上になる。これから日本と中東はどうなっていくのか考えると暗たんとする思いだ。
テロとの戦いと口にすることは暴力で解決しようとする戦争につながっていく。それはアフガン戦争、イラク戦争で実証済みだ。
こういうときこそ私たちの宝である9条を守り、平和を進めていかなければと思う。平和国家で何が悪いのか、平和を守っている憲法がなぜ悪いのか、私たちしか持っていない宝を大切にしていくことこそ、今求められている。
今回のことで日本はますます内向きになっていくかもしれないが、しかし日本を一歩飛び出すと紛争や飢えで苦しんでいる多くの人たちがいる。そこに思いを馳せ、支援していくことは平和への道に繋がるし、それは無念の死を遂げた後藤さんたちの意志を継いでいくことになる。安全にだけに走るのでなく、何が原因でこうなったか検証をし、平和の道を探ることが唯一、解決へつながっていくと思う。
後藤健二さん、湯川遥菜さん、今まで紛争で命を落とした人々に哀悼の意を表します。
posted by 古居みずえ at 13:09|
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